いろいろ
2003年5月24日17歳のバタフライナイフから
「オウムや新興宗教に入信する人は「関係不全」の人たち。特定の人以外とは関係を結べない人や、一定の場でしか関係をもてない人」「不登校の子供が増えている。関係不全の子供が増えている。学校とは違う何かを彼らに提供しなければいけないが、新興宗教がそのう役割を果たしつつある。」「オウムの最大の資金源は秋葉原のパソコンショップではなく歌舞伎町のテレクラを経営していた男。5年で20億のお布施をした」「オウムは以前皇居周辺に炭素菌をばら撒いたが失敗に終わった」
確か、オウムは国会議事堂付近にも炭素菌をばら撒きましたが失敗に終わっています。これは以前日本テレビの夕方のニュースでやっていました。
・・・・・・・
裁判のカラクリという本がある。そこに面白い記述がある。
「芸能人・有名人・権力者の私生活を暴きだすことはプライバシーの侵害になる」としながら、他方ではそれを待ち望む一般国民側の好奇心と、有名人スキャンダル好きに乗じるメディアの報道が持つ「報道の自由」はどうなるのかという問題。正面から衝突するこの問題に今の裁判所は基準を持たない。
この問題に対し、自分を善良な市民だと思いたがる人々は「芸能人といえども私人なのであるからプライバシーの権利はある。マスコミはやりすぎだ」とう。そのくせ有名人のスキャンダルが好きである。
これに山口宏氏はこういう
「テレビで自ら進んで、名を売っていい思いをしている者には、プライバシーの権利はもうないんじゃないでしょうか」
これには私自身は同意できないな、と思う。やはりマスコミの行為は行き過ぎであると思う。確かに境界線は難しいいけれども・・。私はサッカーが好きなのですが、中田は日本のマスコミの酷さに相当苦しめられていたので中田に同情的。中田をネタにして金を稼ぐマスコミにとっては過剰な取材活動は正当化したいのだろうが、実は本当のサッカーファン、などはマスコミの行為にうんざりしている。加えてマスコミのサッカーを見る目の無さ、報道の幼稚さにも呆れている。
この問題は国民の意識の問題、モラルの問題かもしれない。日本では有名人が来ると人がわんさかやってくる。有名人は町もろくに歩けない。しかし、外国は違いサッカー選手などには一般の生活では選手に気を使う人が多く日本のように群がることは少ない。
要するに本当のファンならばその選手が活躍する姿を見たいのであり、そのためにはその選手が活躍できる環境を作ってあげようと気を使うのである。
日本のにわかファンにはそういう気持ちがない。
・・・・・・
昨晩の朝まで生テレビの録画を1時間分くらい見ました。気になった点について記述したいと思います。
まず、番組の途中で女性がイラクの国民の死者数のグラフを出しました。それに対して多くの論客は「アメリカ国内で何故マスコミはそれを取り上げないのか?」と言っていました。
これは私の推測ですがアメリカの政府の情報操作ではなくてアメリカのマスコミ自体がアメリカ国民にとって心地のいい情報しか流さなくなっている、また視聴者が受け付けなくなっているのではないかと思います。「アメリカの政府の情報操作はない」と多くの論客が言っていましたが、それはある意味正しくある意味で間違っている訳だと思います。と言いますのは、アメリカは開戦前に反戦のコマーシャルを流していましたがそれを開始と同時に止めましたし、イマジンは放送禁止(確かそうだったと思います)、これはアメリカの国民が実際に戦争に行っている。そして、リアルタイムで自国の軍人が死んでいく。そして、遺族のコメントがニュースで流され、ブッシュの彼らに対するねぎらいの言葉。こういう流れの中でアメリカ国民は、(9・11のテロの思いもありますが)開戦してしまってからはイラクの国民も傷ついているだとかいう情報を受け入れたくなくなった、のだと思えてしまうのです。いわば戦時中のアメリカ政府の情報操作が解かれたあともアメリカのマスコミの中に残ってしまっているのではないかと。
また、アメリカの世論は「イラクは大量破壊兵器を持っている、それがテロリストに渡ると自分たちがまた危ない」という恐怖心を持ってしまった。自分たちはテロをリアルに受けてしまったのでその恐怖心が極度に達しており、また、9・11の恨み、政府に吹き込まれた得体の知れない「正義感」、それらが結びついて相当に強固なものとなってしまっているのだと思います。
この状況下ではジャーナリストがアメリカは悪という論調の記事を書いても国民は読みたがらない、要するに需要がない。だから、そういう情報が出ない。
次に朝まで生テレビで注目すべきはアメリカのネオコンの代表的な論客、ロバートケーガンのコメントが田原総一郎氏により紹介されたことです。
「ヨーロッパはもうアメリカにとって無用の長物でしかない。放って置いても擦り寄ってくる」
「西部開拓時代の比喩でいえばアメリカは保安官。ヨーロッパは酒場の主。保安官が健在で頑張っている時は無法者(テロリスト、北朝鮮など)は酒場を襲わない。そのときは酒場の主にとって無法者よりも保安官のほうがいろいろと口を出してくるので邪魔な存在だ。むしろ、無法者は保安案が頑張っている時は大人しく、客として有難い位だ。だが、保安官が殺されたり、役割を放棄したりしたら酒場は襲撃される。だから保安官は大切だ。」
但し、ケーガンの論文はブッシュ政権のすべてを表しているわけではなくネオコンの思想を表しているに過ぎないことを注意せねばならないが。
ロバートケーガンはアメリカで「ネオコンの論理」という本を出しているらしくかなり売れているそうです。彼はアメリカのネオコンの意図をかなり正直に書いているので面白いです。
関連リンク
http://www.foreignaffairsj.co.jp/intro/0303Gordon.htm
http://www.policyreview.org/JUN02/kagan.html
・・・・・
某掲示板における私の書き込みの記録。死刑制度についてです。
死刑制度には賛成です。ただし、今の警察の捜査や検察や裁判所などの機能を考えると
実際には上手く機能していない点が問題視されなくてはなりません。
何故ならば警察の自白の強要などが未だに行われている現状を考え、
さらにそれによって作られた調書が裁判において相当に重視されるなど、
冤罪ができる可能性が排除されていないことを私は問題視しています。
もちろん完璧というものは期待できませんが今の日本のそれは酷すぎます。
その意味では冤罪で死刑になってしまう可能性が否定できない分、
今のままで死刑に全面的に賛成とは言えません。
しかしながら、刑罰においては死刑は賛成です。
もちろん死刑は犯罪の抑止にはならない、というのは現状のようですが
(アメリカの裁判関係の本を読みました)死刑は私は必要だと考えます。
もちろん、今のままでは駄目で死刑と無期に差がありすぎるのを改善しなくてはなりませんが。
それでも例え懲役200年などのようにアメリカ式を取ったとしても
「死」というものは人間にとってやはり何がしかの「恐怖」になりうると考えるからです。
精神的に疾患を患っている場合なら別ですが普通の人間は「死」はやはり恐怖です。
どんなにデーターが死刑は犯罪の抑止にはならないと言っても、1人でも死刑を恐れて
犯罪を止める事ができるならそれで私は十分だと考えるからです。
・・・・・
今の裁判制度は極めて問題が大きすぎる。刑事裁判では有罪率がほぼ99%だという現状を考えると自白の強要をされて、その場しのぎでうかつにもやってもいないなのに「やりました」と言ってしまう人が多いのが問題だ。取調べの際は精神的に追い詰められて「やりました」といえば楽になると言われて言ってしまったために後でひっくり返せなくて冤罪になるパターンが多い。実は裁判の時、最も重視されるのがはじめの取調べの際に作られた調書なのだから後で幾ら無罪を証明しようとしても実際はなかなか難しい。加えて裁判自体にも問題がある。裁判官が抱える仕事の量は膨大でかなり機械的に裁かなくてはならない上に、数をこなさないと上に上がれないシステムになっているため裁判官が適切な裁判をしていないのだ。
要するに刑事裁判では有罪率がほぼ99%というのはほとんど無罪が出ないことを意味していてひっくり返らない。その上、自白の強要がいまだにある。
これでは冤罪は無くならない。
「オウムや新興宗教に入信する人は「関係不全」の人たち。特定の人以外とは関係を結べない人や、一定の場でしか関係をもてない人」「不登校の子供が増えている。関係不全の子供が増えている。学校とは違う何かを彼らに提供しなければいけないが、新興宗教がそのう役割を果たしつつある。」「オウムの最大の資金源は秋葉原のパソコンショップではなく歌舞伎町のテレクラを経営していた男。5年で20億のお布施をした」「オウムは以前皇居周辺に炭素菌をばら撒いたが失敗に終わった」
確か、オウムは国会議事堂付近にも炭素菌をばら撒きましたが失敗に終わっています。これは以前日本テレビの夕方のニュースでやっていました。
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裁判のカラクリという本がある。そこに面白い記述がある。
「芸能人・有名人・権力者の私生活を暴きだすことはプライバシーの侵害になる」としながら、他方ではそれを待ち望む一般国民側の好奇心と、有名人スキャンダル好きに乗じるメディアの報道が持つ「報道の自由」はどうなるのかという問題。正面から衝突するこの問題に今の裁判所は基準を持たない。
この問題に対し、自分を善良な市民だと思いたがる人々は「芸能人といえども私人なのであるからプライバシーの権利はある。マスコミはやりすぎだ」とう。そのくせ有名人のスキャンダルが好きである。
これに山口宏氏はこういう
「テレビで自ら進んで、名を売っていい思いをしている者には、プライバシーの権利はもうないんじゃないでしょうか」
これには私自身は同意できないな、と思う。やはりマスコミの行為は行き過ぎであると思う。確かに境界線は難しいいけれども・・。私はサッカーが好きなのですが、中田は日本のマスコミの酷さに相当苦しめられていたので中田に同情的。中田をネタにして金を稼ぐマスコミにとっては過剰な取材活動は正当化したいのだろうが、実は本当のサッカーファン、などはマスコミの行為にうんざりしている。加えてマスコミのサッカーを見る目の無さ、報道の幼稚さにも呆れている。
この問題は国民の意識の問題、モラルの問題かもしれない。日本では有名人が来ると人がわんさかやってくる。有名人は町もろくに歩けない。しかし、外国は違いサッカー選手などには一般の生活では選手に気を使う人が多く日本のように群がることは少ない。
要するに本当のファンならばその選手が活躍する姿を見たいのであり、そのためにはその選手が活躍できる環境を作ってあげようと気を使うのである。
日本のにわかファンにはそういう気持ちがない。
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昨晩の朝まで生テレビの録画を1時間分くらい見ました。気になった点について記述したいと思います。
まず、番組の途中で女性がイラクの国民の死者数のグラフを出しました。それに対して多くの論客は「アメリカ国内で何故マスコミはそれを取り上げないのか?」と言っていました。
これは私の推測ですがアメリカの政府の情報操作ではなくてアメリカのマスコミ自体がアメリカ国民にとって心地のいい情報しか流さなくなっている、また視聴者が受け付けなくなっているのではないかと思います。「アメリカの政府の情報操作はない」と多くの論客が言っていましたが、それはある意味正しくある意味で間違っている訳だと思います。と言いますのは、アメリカは開戦前に反戦のコマーシャルを流していましたがそれを開始と同時に止めましたし、イマジンは放送禁止(確かそうだったと思います)、これはアメリカの国民が実際に戦争に行っている。そして、リアルタイムで自国の軍人が死んでいく。そして、遺族のコメントがニュースで流され、ブッシュの彼らに対するねぎらいの言葉。こういう流れの中でアメリカ国民は、(9・11のテロの思いもありますが)開戦してしまってからはイラクの国民も傷ついているだとかいう情報を受け入れたくなくなった、のだと思えてしまうのです。いわば戦時中のアメリカ政府の情報操作が解かれたあともアメリカのマスコミの中に残ってしまっているのではないかと。
また、アメリカの世論は「イラクは大量破壊兵器を持っている、それがテロリストに渡ると自分たちがまた危ない」という恐怖心を持ってしまった。自分たちはテロをリアルに受けてしまったのでその恐怖心が極度に達しており、また、9・11の恨み、政府に吹き込まれた得体の知れない「正義感」、それらが結びついて相当に強固なものとなってしまっているのだと思います。
この状況下ではジャーナリストがアメリカは悪という論調の記事を書いても国民は読みたがらない、要するに需要がない。だから、そういう情報が出ない。
次に朝まで生テレビで注目すべきはアメリカのネオコンの代表的な論客、ロバートケーガンのコメントが田原総一郎氏により紹介されたことです。
「ヨーロッパはもうアメリカにとって無用の長物でしかない。放って置いても擦り寄ってくる」
「西部開拓時代の比喩でいえばアメリカは保安官。ヨーロッパは酒場の主。保安官が健在で頑張っている時は無法者(テロリスト、北朝鮮など)は酒場を襲わない。そのときは酒場の主にとって無法者よりも保安官のほうがいろいろと口を出してくるので邪魔な存在だ。むしろ、無法者は保安案が頑張っている時は大人しく、客として有難い位だ。だが、保安官が殺されたり、役割を放棄したりしたら酒場は襲撃される。だから保安官は大切だ。」
但し、ケーガンの論文はブッシュ政権のすべてを表しているわけではなくネオコンの思想を表しているに過ぎないことを注意せねばならないが。
ロバートケーガンはアメリカで「ネオコンの論理」という本を出しているらしくかなり売れているそうです。彼はアメリカのネオコンの意図をかなり正直に書いているので面白いです。
関連リンク
http://www.foreignaffairsj.co.jp/intro/0303Gordon.htm
http://www.policyreview.org/JUN02/kagan.html
・・・・・
某掲示板における私の書き込みの記録。死刑制度についてです。
死刑制度には賛成です。ただし、今の警察の捜査や検察や裁判所などの機能を考えると
実際には上手く機能していない点が問題視されなくてはなりません。
何故ならば警察の自白の強要などが未だに行われている現状を考え、
さらにそれによって作られた調書が裁判において相当に重視されるなど、
冤罪ができる可能性が排除されていないことを私は問題視しています。
もちろん完璧というものは期待できませんが今の日本のそれは酷すぎます。
その意味では冤罪で死刑になってしまう可能性が否定できない分、
今のままで死刑に全面的に賛成とは言えません。
しかしながら、刑罰においては死刑は賛成です。
もちろん死刑は犯罪の抑止にはならない、というのは現状のようですが
(アメリカの裁判関係の本を読みました)死刑は私は必要だと考えます。
もちろん、今のままでは駄目で死刑と無期に差がありすぎるのを改善しなくてはなりませんが。
それでも例え懲役200年などのようにアメリカ式を取ったとしても
「死」というものは人間にとってやはり何がしかの「恐怖」になりうると考えるからです。
精神的に疾患を患っている場合なら別ですが普通の人間は「死」はやはり恐怖です。
どんなにデーターが死刑は犯罪の抑止にはならないと言っても、1人でも死刑を恐れて
犯罪を止める事ができるならそれで私は十分だと考えるからです。
・・・・・
今の裁判制度は極めて問題が大きすぎる。刑事裁判では有罪率がほぼ99%だという現状を考えると自白の強要をされて、その場しのぎでうかつにもやってもいないなのに「やりました」と言ってしまう人が多いのが問題だ。取調べの際は精神的に追い詰められて「やりました」といえば楽になると言われて言ってしまったために後でひっくり返せなくて冤罪になるパターンが多い。実は裁判の時、最も重視されるのがはじめの取調べの際に作られた調書なのだから後で幾ら無罪を証明しようとしても実際はなかなか難しい。加えて裁判自体にも問題がある。裁判官が抱える仕事の量は膨大でかなり機械的に裁かなくてはならない上に、数をこなさないと上に上がれないシステムになっているため裁判官が適切な裁判をしていないのだ。
要するに刑事裁判では有罪率がほぼ99%というのはほとんど無罪が出ないことを意味していてひっくり返らない。その上、自白の強要がいまだにある。
これでは冤罪は無くならない。
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